さーてin長崎 Part5書いて参ります
前回は城山小学校に着いた所で筆をおきました、その続きです
現在の城山小学校✨
下校する学生の皆さんから、こんにちはー!と、挨拶されて驚きながらも嬉しくて、こんにちはー!と返す。
敷地内に戦争の遺構がある城山小学校、
ここに来る人はどういう目的で来ているのか、そして自分たちはどう迎えて何を伝えて行くのか。
1人1人が分かってるんだなぁと。。
その爽やかな挨拶から伝わって来ました✨
外には柱の一部も残っています
外側のコンクリート中は煉瓦だったことが分かります
いよいよ中へ入って参ります
館長の方が丁寧にご案内して下さり、偶然にも私達しか見学者が居なかったので、質問もさせて頂き、そしてゆっくり見させて頂きました
悲惨な事実をしっかり見なければならないのてすが、何故かかつての城山小学校を思って描かれた絵にひかれてしまいます
丘の上に白亜のコンクリート造りの小学校、さぞや誇りだっただろうな。。
この絵からも目が離せなくなりました
もちろん写真の記録も凄まじいものがありますが、絵はなんでか、色々な事に想像が膨らみます
階段棟の壁にある窓。。
そして当時城山小学校で、どなたかが使っていたお茶セット
もちろん爆撃により焦げたりしてるのですが、よーく見るとこの茶器、本当に可愛いものでした
そしてこの棚も生き延びたもの
書類でも入れてたのかな??
風情があるな。。
そんなこんなで見学を続けてたら
館長さんがまた私達の元へ来て下さり
2階部分の窓へ案内してくれました
窓の外にはこんな風景が。。
館長さん「長崎銀行の看板見えますか?その横の木が見えますか?その木の真上500mの所で原子爆弾が炸裂したんですよ。こんな風に見るとイメージできるでしょう。そして近いでしょう。」
言葉も無くりました、、
資料館でもここに落ちたんだよという模型は見ましたが、今の風景と照らし合わせて説明頂くと、あまりに距離が近く、、。
不謹慎ながら、花火だったら良かったのに。と、そんな事を思っていました。
そして当時城山小学校に居た方々はほぼ被害に遭われましたが、同じ場所に居た教頭先生の命が繋がります
教頭先生は、とにかく城山小学校で被害に遭われた方全てを調べあげようという事で、教職を退職後にご自分で調べ始めたようです
原子爆弾投下の後の火災で、大体の資料は燃えてしまって今だにお名前が分からない方も居る様なのですが、
館長さんが座ってらっしゃるお部屋に、教頭先生が調べたお一人お一人のお写真とその方についてのコメントがありました
そのお一人お一人の年齢が若い。。
なんなんだよ戦争って。。
館長さんに別れを告げ
もろもろずしっと来まして重い足取りになりながらも歩き出します
今度は路面電車に乗ります‼︎
停車駅はは市民会館前ー✨
路面電車に乗ると一息つけます🍵
青年座が演劇鑑賞会の旅公演でお世話になってる長崎市民劇場さんを訪ねました✨
皆さん作業してらっしゃった所へ失礼しました
私が九州に旅公演として来させて頂いた
青年座「をんな善哉」の担当サークルだった方もいらして、更には「見よ、飛行機の高く飛べるを」も観たよーと言って下さり、有り難かったです。
そしていつかこの作品「明日 ー一九四五年八月八日•長崎ー」を例会で呼びたいのよ〜と仰って下さり、ますます頑張らなきゃなーと思いました
突然お邪魔したのにお話しして下さりありがとうございました😊
長崎市民劇場さんの事務局から直ぐ近くにある
めがね橋を目指します
ますます日光が強くなってきました
きっと1945年8月8日もこんな風な夏空だったのでしょう
めがね橋周辺の地図です
地図の半分から上の部分には、見事にお寺が並んでいます。
時の政権によって変化してきた長崎の街
例えば宗教の事で言えば、
キリスト教が認められて神社仏閣が追いやられた時期、はたまたキリスト教を御法度とし、信者を処刑するにまでいたった哀しい歴史があるのが長崎の街。
鎖国をしている日本の中でも、唯一の交流の場であり他国の文化が次々と入ってくる長崎という場所だからこその光と闇。。
誰も未来は分からない中その時のベストを時のトップ達は選択してきたのかもしれませんが、後世に残る哀しい歴史は、人の命とはなんぞや?という問いを私達に訴えてきます
きっとこのめがね橋は、そんな人の苦しみも喜びも見続けてきたのでしょう
(写真には紫外線完全防備の方が…私です)
先程の地図のお寺が沢山あった通り、
寺町の通りを歩いて、私の役、福永亜矢さんの痕跡を辿ります
そしてこの辺りでPart5を終えますー!
まだまだ旅の2日目は続きます🙂
1日お疲れ様でした🍺